沖縄の終戦記念日。6月23日は慰霊の日。楽しいだけじゃない沖縄の歴史。
大好きな沖縄の悲しい歴史。
もうすぐ6月23日ですね。
この日は、日本で唯一地上戦が行われた沖縄の戦闘が 事実上終結した日で、沖縄全戦没者追悼式が行われます。
我が家は、もう数十年、毎年沖縄へ旅行に行っています。
1度訪れたら、はまってしまい
娘と3人での旅行から、夫婦2人になり、そして、孫を連れて・・・と家族のかたちを変えて、毎年かかさずに訪れている沖縄。
南部にたくさんある「慰霊塔」や「戦跡」を初めて見た時には、衝撃を受けました。
6月23日も近いという事で、
楽しいだけではない沖縄の悲しい歴史のお話です。
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沖縄戦と住民
1945年3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸しました。これが沖縄戦の始まりです。
米軍は沖縄本島に40,000発の砲弾を撃ち込みます。これが世にいう「鉄の暴風雨」ですね。
そして4月1日には沖縄本島中部の北谷村、読谷村から上陸を開始。
本格的な戦闘は4月2日から始まります。
この日から事実上の組織的な戦闘が終わるまでの間、巻き込まれた住民は逃げまどい、行き場を失い数々の悲劇がうまれます。
有名なところでは「チビチリガマの集団自決」があります。ガマにいた住民83名が命をおとしました。
米軍にとらわれる事を恐れ、それならと、家族同志で殺し合うなどという悲劇もありました。
学生も親元を離れ、「ひめゆり隊」「しらゆり隊」「鉄血謹呈隊」として、戦闘に駆り出される事になり、戦死や自決という悲劇的な最後を迎えることになります。
また、疎開する子供を乗せた船「対馬丸」は攻撃を受け沈没。1476名が死亡するという事件もおります。
沖縄戦に投入された特攻機は1900機。若い命が空に散りました。
沖縄を助けるために本土を出発した戦艦大和は、4月7日に沈没。
5月末には、首里陣地本部を総攻撃され、撤退を余儀なくされる日本軍。
食べるものもなく、武器も底をつき、助けもこない・・・。
米軍の圧倒的な戦力の前に、住民は行き場を失い、戦火に倒れてゆきます。
首里を撤退し、摩文仁へ撤退した本軍はほとんどの戦力を失っており、6月20日前後には組織的な戦闘ができなくなってしまいます。
6月23日には、牛島司令官が部下に「最後まで戦え」と命じ、自身は摩文仁岳で長勇参謀長と共に 自決します。
米軍統治下の琉球政府及び、沖縄県は 司令官の自決により組織的戦闘ができなくなった6月23日を事実上の沖縄戦終焉とし、慰霊の日とする事に決めました。
沖縄県の人口約49万人のうち、戦没者は約12万人にものぼり、そのうちの約9万4000人は一般の沖縄県民でした。
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太田実中将の電文
6月6日に、太田司令官が沖縄司令部から、本土参謀本部へ発信した電文です。
この電文を送った後の6月13日に自決。この後、海軍中将に特別進級されました。
沖縄の人々が共に戦っていたのがよくわかる電文ですね。実際はもっともっと悲惨だったはずですが・・・。
悲しい気持ちになります。
【現代口語訳】
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
敵が沖縄本島に対し攻撃を開始して以降、帝国陸海軍は防衛戦に専念し、県民の保護に関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集にすすんで応募。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれながらも、ただ着の身着のまま軍の作戦の邪魔にならないよう狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも、風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜のうちに遥か遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして、草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
【仮名遣い変換版】
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし
琉球王国から日本の琉球藩、沖縄県へ。アメリカに統治され、再び日本返還へと。
沖縄県はもともとは、
1429年から1879年まで約450年の間「琉球王国」という王様がいた、一つの独立した国でした。
本土で、室町だ、鎌倉だ、戦国だー、とやっている間、こちらの国はこちらの国で抗争を繰り返し、尚巴志という方が国を統一します。
琉球王国は立地的に中国との貿易もさかんで、文化もたくさん入り込んでいます。
沖縄が、本土と違う文化や、建物があるのはこのためですね。首里城や御嶽や漢字の読みなど、かなり独特です。
ところが、1906年に、日本の薩摩藩が琉球に攻め入り、首里城を占領されてしまいます。
それからは、徳川幕府と薩摩藩の従属国となり、琉球藩と呼ばれます。
そののち、明治維新後の廃藩置県で国王は追放され、琉球王国は日本の沖縄県となります。
そして、第2次世界大戦で、日本でただ一つの地上戦を迎え、それまでの貴重な文化財などはことごとく焼かれ、破壊されてしまいます。
敗戦後は、米軍の統治下となり、日本から沖縄に行くには「パスポート」が必要になりました。
日本に返還されたのは、1972年5月15日のことです。
翻弄されつづける沖縄県
今も、色々と揺れ動いている沖縄県ですが、
この、周りにふりまわされている感のある「沖縄県」がなんとも不憫に感じてしまって・・・。
私個人的には、パスポートなしで、あんなにきれいな海を見ることができて、本当にうれしい限り、「ここが日本で良かった」という気持ちなんですが・・・。
沖縄の人って実際はどう思っているのかな・・・と考えてしまいます。
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祈念館、資料館など
沖縄には、この戦争関連の資料館、記念館、慰霊碑、慰霊塔などがたくさんあります。
特に戦火のはげしかった南部に集中しています。
お時間のある方はぜひ足を運んでみて下さい。
◆ ひめゆりの塔
中は、亡くなられた方の写真と最後の言葉が飾られていて、同じ年頃の娘がいた私も悲しくなりました。16歳だった娘も神妙に見入っていました。連れて行って良かったと思います。
◆ 魂魄の塔
あちこちに散らばっている遺体を地元の方が一か所に集めたお墓です。空気がちょっと違う感じがしました。写真をとろうとしたら娘に「やめたほうがいいよ」と止められました。
◆ 旧海軍司令部豪
生々しい・・・の一言です。
公園には、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の名を刻んた平和の礎や、平和の火、沖縄師範健児之塔、沖縄工業健児之塔など、慰霊塔も多数あります。海を埋め尽くす軍艦の写真が印象的でした。
目の前に飛び込んでくる景色が素晴らしいですが、追い詰められた人々が身を投げた場所です。
◆ 対馬丸資料館
対馬丸で亡くなった児童の写真が飾られています。
◆ 沖縄博物館
琉球のころからの沖縄の歴史がわかりやすく展示されています。よくできてるなあという印象。
資料ではありませんが、📺「サトウキビ畑の唄」もわかりやすかったですよ。
名作です。
慰霊の日
今年も6月23日に「平和祈念公園」で「沖縄全戦没者追悼式」が行われます。
11:50~12:40まで。
前夜祭からイベントまで催し物も色々とあります。
我が家は、ここのところずっと離島ばかりで、本島に行く機会がないのですが、いつもテレビで見て黙祷をしています。
ですが、時期が来たら
この南の島でほんの70年ほど前に起こった出来事を「沖縄大好きな孫達👦、👧」にも伝えて行こうと思います。我が家は沖縄県民ではないけれど、ここで家族の思い出をたくさんもらっているのですから。
間違っても、チビチリガマを破壊するようなマネをしないように・・・
という訳で、沖縄のお話と、慰霊の日についてでした。
これから沖縄へおでかけのあなたも
沖縄の終戦日に今一度平和について考えてみるのもよい機会ですね。
「ぬちどぅ宝」
ではでは✋
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